FmFによるアメリカとの交流


その1、ことの始まりは

(内は2001年度に書けなかったことを、1008年に記憶にたよって追記)

1月のある日のこと、教育委員会が学校へ「特色ある学校作り」について聞きにきた。

教頭がいなかったので、ボクが「コンピュータを使った教育と総合学習」と対応したのだけれど、
そのときの話のついでに
「来年度アメリカの学校と交流する気はない?」
と、教育委員会の松原さん。
今年度コンピュータを入れたんで、来年度これを利用して研究を進めたいのだそうだ。
「どんなことするの」と聞くと
「甲虫を調査してそれをお互いに発表しあう。」のだという。
ボクの頭の中には、次のようなことが駆けめぐった。
○ボクは理科の専科だから、動物調査はだいじょうぶ。
○それに、市内ではコンピュータを使っての交流は竜丘小学校が適任だ。
○市教委にはいろいろとお世話になっているし、これには応えたいな。
○交流なら画像とメールですれば、だいじょうぶだろう。

○このときはアメリカへ行くことは知らなかったし、話にもなかったのでした。

そこで「そんなことならおやすいご用。」、と答えたのがはじまり。

(その後すぐ、校長室へ行って、係長さんが米国との交流をしないかといったので、はいと答えました。宜しくお願いします。と伝える。すぐに良いよと言う返事はもらえなかった。
中身はボクはよく知らなかったのだが、
数日後、事務官が「あんなの行けるわけ無い」と聞こえるように言っているのが聞こえた。書類を取り寄せて調べてくれたのだろう。どういうことなのか・・・どうして「行けるわけがない」というのかボクには分からないのだ。
それが行くことになった。どうしてかというと・・・・)

ところが、ところが明後日、教頭が手に入れてきた教育委員会の書類によると、
「竜丘小学校は来年度はアメリカとの交流を進めるよう考えてほしい。」とあるというのです。
こうして、卒業式にも出ないでアメリカに2週間行くことになっていたのです。
それも2人も。これは大変なことでした。そこで校長先生に、
「軽率でした。断ってください。」
というと、なんと
「行って来い。」
と英断が下され、宮澤先生と行くことになったのでした。

(校長から「3月にアメリカを実際に訪れること、そのとき一人ではなく教育委員会から1人、学校から交流の係とテックの2人が訪問する」「一緒に行きそうな人はいないか」と話があった。ボクは2〜3人の候補をあげて、実際に何人かに行かないかと声をかけたけれど、「行けない」との答だけだった・・・)

それから職員室は、アメリカ談義。
「私もトランクに入れて連れてって。」なんてかわいい話から
「一人毒殺して、代わりに行こうかな。」
「どっちを毒殺するの?」
「私と行きたいひとー。」
なんていう話しまで出てきました。

話は尾ひれが付いて広がって、
「野上先生は、アメリカへ行って1年、帰ってこない。」
なんて思っている人もいました。

噂では校長会で話したら、うちの学校も行きたいという声がいくつもあったとか。

ITSセンターの高橋さんに「アメリカとの交流するけど。」と話したら、高橋さんが
「アメリカとの交流はすすめると良いですよ。」
と、教育委員会に進言してくれたのだそうだ。ありがとう。

手は挙げてみるものです。

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